救いの証

私は、18歳の時に洗礼を受けました。

私は自分のことを「この世に神はいないとする人たちの代表となるべき存在だ」ぐらいのことを思っていました。

そんな私が教会に行こうと思ったきっかけは、高校3年生の夏休みの時に、家のベッドでごろごろしていた時のことでした。

それは本当に不思議で、誰かに「教会に行こう」とか「イエスを信じなさい」とか言われたのではなく、ふと「教会にでも行ってみようかな」と思ったのでした。 (更新日2020.7.6)

私の通っていた幼稚園が、キリスト教のプロテスタントの伝道所が運営していたこともあり、私の中で「教会」といえば、キリスト教のプロテスタントでした。私をその幼稚園に入れたのは両親ですので、何か情報をくれるのではないかと思い、母に聞きました。

「教会に行ってみたいけど、どうしたらいいか」と、突然何を言い出すのかと驚かれはしないかと心配をしながら、母に聞きました。すると、母は特に驚いた様子もなく即座に答えてくれました。「あなたのお姉ちゃん、クリスチャンだよ」と。全く知らなかった事実を突きつけられて驚きはしましたが、思い当たる節もあったので、その事実をすぐに受け入れることが出来ました。

ある私の誕生日の時、家に帰ると「誕生日プレゼントだよ」と言わんばかりに聖書が机の上に置いてあるのを見て、憤ったことがあったのです。誕生日プレゼントにせっかくお金を使うのなら、なぜ当人の欲しいものをプレゼントすることができないのかと、激しい怒りに襲われたことを思い出したのです。そして、聖書を置いた人が姉であったことに気づき(後に姉に確認したところ、覚えていないとのことでしたが、、、)、姉がクリスチャンであるという考えもしなかった事実を知ったのでした。(更新日2020.7.21)

その後のある日、友達数人と朝方まで遊び惚け、オートバイで田舎道を走っていた時のことです。私は、眠たいのと、景色がきれいなのとで前をしっかりと見ずに走っていたせいで、道の先にあるカーブに全く気が付いていませんでした。そのせいで、全く減速することなく、カーブに突入してしまったのです。私は体が宙に浮くのを感じました。どれくらいかわかりませんが、気を失っていたようでした。起き上がりまず目にしたのは、深い用水路にはまっているオートバイでした。私自身は、その用水路を飛び越え、草むらに倒れていたのです。私は自分に怪我がないことと、自分でオートバイを引き上げることが不可能であることを確信しながら、無意識に携帯電話を手にとり、姉に電話をかけて言ったのです。「教会に行ってみたい」と。

私は、日ごろから生きることに無気力で、いつ死んでもかまわない、むしろできるなら一秒でも早く死んでしまいたいと思っていたはずなのに、その時は生きていることの喜びを感じたのです。そして、その時に感じた自分の矛盾している何かの答えを、無意識で教会に求めたのではないかと思います。

当時、姉は札幌の教会に通っていたので、一人で札幌まで行き、姉に連れられ日曜日の礼拝に出ました。ですが、教会に行った時には事故の時のことは忘れ、初めて行く場所への緊張でいっぱいでした。自分が何をしに教会に来たのかを忘れ、礼拝中に歌われる賛美の曲を一つも知らず、聖書の話も理解できず、知らない人たちから投げかけられるたくさんの質問に疲れ、もう教会に来ることはないだろうなと思っていた矢先に、ある方が言ったのです。「毎週日曜日に札幌に来るのは大変だろうから、旭川の若者の多い教会を紹介してあげる」と。なんとお節介な人なんだろうと驚きながらも、その親切を受け取り旭川に戻りました。紹介されたからといって、必ず行かなければならないということはなかったのでしょうが、「紹介されたのだから一度は行って、きちんと感想をお伝えしなければならないのではないか」というよくわからない責任感で溢れました。そして、紹介者の好意に応えようという思いで旭川の教会に行きました。

そんな思いで訪れた旭川の教会で、私の求めていた答えが与えられたのです。(更新日2020.9.23)

私がその旭川の教会を始めて訪れたのは、10月くらいだったような気がします。一人で行くのが心細くて私から言い出したのか、初めての教会に行こうという私に気を使ってくれたのか、姉が一緒に行ってくれました。そして、よくわからないまま礼拝が終わり、教会で昼食をいただいていると、教会の方が「今日は牧師先生が韓国に行っていて不在だから、来週も来てください」と声をかけてくれました。今思うといくらでも断れたはずなのですが、なぜか次の週も教会に行き、またよくわからないまま礼拝が終わり、家に帰ろうとしていると、今度は牧師先生が「時間のある時に教会にきて、お話をしましょう」と声をかけてくださったので、会う約束をして、家に帰ったのでした。牧師先生に会う時になって、初めて何の話をするのだろうかと疑問に思いながら、牧師先生の部屋をノックし、牧師先生との時間が始まりました。

そこで、開いた聖書の中にある創世記1章1節の言葉が、まさに私の求めていた答えになったのです。(更新日2024.8.21)

創世記1章1節には、「はじめに神は天と地とを創造された」(口語訳)と書かれていました。牧師先生は、この聖書個所を一緒に読みながら、私に「生命は偶然に発生するかどうか」という問いをなげかけられました。当時の私はどこで聞いたのか、ビッグバン宇宙論を当たり前のように受け入れていましたし、進化論もまた当たり前のように受け入れていましたので、「生命は偶然に発生する」と思っていました。そんな私に牧師先生は、「生命は偶然に発生することはなく、聖書の神がつくられたから存在しているのだ」という話を始められ、今までだったら信じなかったであろうその話に引き込まれていったのでした。(更新日2024.9.10)

牧師先生はご自身の腕時計を机に置き、私に「この腕時計を何度もハンマーでたたいたら、どうなると思う」と質問されました。(トラックが腕時計の上を何度も行ったり来たりするという話だったかもしれませんが、、、)私は「鉄くずになります」と答えました。さらに牧師先生は言われました。「さらにたたき続けたらどうなると思う」。私は牧師先生の質問の意図がわからず「もっとぐちゃぐちゃになります」と幼稚な答えをしました。すると牧師先生は、「ずっとこの腕時計をたたき続けていたら、いつかこの腕時計から生命が生ずる可能性はあると思うかい。何年もたたき続けて、偶然この腕時計に雷が落ちたりといろんな偶然が重なった結果でもいいから、この腕時計から生命が生ずる可能性はあると思うかい」と私に質問された時に、私はたぶん薄ら笑いを浮かべていたのではないかと思いますが、「ありません」と自信満々に答えたことを覚えています。「神の存在も信じていないのに、そんなバカげた奇跡みたいなことを信じるわけがないだろう」と思ったことを覚えています。その時に、牧師先生が言われたのです。「これが世間でいうビッグバン理論だよ」と。私の頭の中は一瞬パニックに陥りました。今まで偶然に生命が誕生したと思って生きていたのに、偶然に生命が生じないことを自分自身が認めてしまったのですから。その結果当然のように一つの疑問が浮かびましが。「じゃあ生命はどこから来るのだろう」。そうして、牧師先生に促され、開いた聖書個所が創世記1章1節「はじめに神は天と地とを創造された」(口語訳)だったのです。 (更新日2024.11.12)

 

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